
ヒツジグサは、スイレン目(Nymphaeales)スイレン科(Nymphaeaceae)スイレン属(Nymphaea)に属する水生多年草である。学名はNymphaea tetragonaである。日本に自生する唯一のスイレン属植物であり、北海道から九州にかけての低地から山地の池沼や湿原に広く分布する。和名は、未の刻(現在の午後2時頃)に花を開くとされたことに由来するが、実際には午前中から開花し午後にかけて閉じる性質を持つ。世界最小級のスイレンとして知られ、白色の可憐な花を咲かせることから、古くから観賞対象として、また園芸品種であるヒメスイレンなどの交配親としても重要視されてきた種である。
地下には短い根茎が直立し、そこから長い葉柄を伸ばして水面に浮葉を展開する。浮葉は卵状楕円形で基部に深い切れ込みを持ち、葉縁は全縁である。葉の表面は緑色であるが、裏面はしばしば赤紫色を帯びる。花は葉柄と同様に水中から伸びた花柄の先端に一輪ずつつき、水面に浮かぶように開く。花の直径は3センチメートルから5センチメートル程度で、外側に4枚の萼片、内側に約10枚前後の白色の花弁を持ち、中心部には黄色の雄しべが多数配置される。花は数日間にわたって開閉を繰り返したのち水没し、水中で結実する。ハスとは異なり、葉の表面に強い撥水性は認められない。
ヒツジグサはユーラシア大陸から北アメリカにかけての北半球の温帯から寒帯域に広く分布し、日本国内でも北海道から九州の山地湿原や池沼に自生が確認されている。水深の浅い、栄養塩に乏しい貧栄養から中栄養の止水域を好み、富栄養化の進んだ水域では他の抽水植物や沈水植物との競合により衰退しやすい傾向がある。花は訪花昆虫による他家受粉を基本とするが、自家受粉も可能な繁殖様式を備えている。種子は水面付近で成熟した果実が水中で崩壊することで放出され、水流によって散布される。根茎による栄養繁殖も旺盛であり、一つの個体群が長期間にわたり同一の水域内で維持されることも多い。
ヒツジグサを含むスイレン属植物は、フラボノイドやアルカロイド、タンニンなどの多様な二次代謝産物を根茎や葉に蓄積することが知られている。特に根茎に含まれる成分は、伝統的に収斂作用や抗菌作用を有するとされ、民間療法における利用の背景となってきた。浮葉の開閉運動は、光や気温の変化に応答した膨圧の調節によって制御されており、花弁の開閉もこれと同様の機構に基づくと考えられている。水中に没した状態で生育する根や地下茎には、通気組織が発達しており、酸素の乏しい底泥環境においてもガス交換を可能にする適応構造を備えている。
ヒツジグサは古くから日本人にとって身近な水生植物であり、和歌や俳句などの文学作品にもしばしば取り上げられてきた。観賞用としては、鉢植えや池での栽培に適した小型スイレンとして庭園や公園の水景に用いられるほか、より小型で花色の変異に富むヒメスイレンなどの園芸品種を生み出す交配親としても重要な役割を果たしてきた。一方で、近年は開発や水質汚濁による湿地環境の減少、および園芸用に導入された外来スイレン類との交雑による遺伝的な攪乱が懸念されており、各地の自生集団の保全が課題となっている。
ヒツジグサが属するスイレン目は、被子植物の中でも特に初期に分岐した系統の一つとして位置づけられている。被子植物全体の系統樹においては、アンボレラ目に次いで早い段階で他の系統から分かれた単系統群がスイレン目であり、真正双子葉類や単子葉類を含む大部分の被子植物(メサンギオスペルマエ)とは独立に、長い進化的時間を経てきた系統である。スイレン科の中でスイレン属は最も種数の多い属であり、その中でヒツジグサは寒冷地に適応した小型種の系統に位置する。花の形態においては、萼片と花弁の分化が不完全で、花弁から雄しべへと連続的に移行する形質が見られるなど、被子植物の初期的な花の構造的特徴を色濃く残している点が、本種を含むスイレン目の進化史を考える上で重要視されている。
第2版:2026-07-30.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.