
ヒシ(Trapa bispinosa Roxb.)は、ミソハギ科(Lythraceae)ヒシ属(Trapa)に属する一年生の水生植物である。池沼やため池、河川の淀みなどに群生し、水面を覆うように菱形の浮葉を広げる浮葉植物として広く知られる。和名「菱」は、葉の形あるいは果実の形に由来するとされるが、いずれに拠るかは諸説あり明確でない。
なお、学名の扱いについては文献によって差異がある点に触れておく必要がある。日本で標準的に「ヒシ」と呼ばれる種にはTrapa japonica(シノニムTrapa jeholensis)が充てられることが多く、Trapa bispinosaはその変種または広義の同種として扱われる場合と、インド亜大陸を中心に分布し食用として栽培される近縁の二刺型ヒシ類を指す場合とがあり、資料間で一致を見ない。
一年生の水草で、春に前年水底に沈んだ種子から発芽し、水中を長く伸びる茎はよく分枝しながら伸長する。茎の各節からは水中根を出し、水面に向かって伸び上がる。葉は互生し、茎の先端に集まってロゼット状につくため、一見すると輪生しているように見える。浮葉の葉身は幅2から6センチメートルほどの広菱形または卵状菱形で、基部を除く辺縁に不揃いの鋭い鋸歯を持つ。外側の葉ほど葉柄が長くなる傾向があり、これにより個々の葉が重なり合わず水面に効率よく展開する。葉柄の中央部は紡錘形に膨らんで内部がスポンジ状の浮き(気嚢)となり、葉を水面に浮かせる浮力を担う。
花期は7月から10月である。葉腋から伸びた花柄の先に、直径約1センチメートルの白色または淡紅色の花を1日花として咲かせる。花弁は4枚、雄しべは4本、雌しべは1本である。花後、2個ある胚珠のうち一方だけが発育して水中で結実し、幅3から5センチメートルほどの果実となる。果実は扁平な倒三角形ないし菱形で、4個ある萼片のうち2個が発達して鋭い刺角となり、先端には逆刺を備える。残る2個の萼片は退化し、小さな突起状の痕跡として残ることが多い。胚乳を欠き、子葉の一方が肥大してデンプンを蓄積する。秋に黒褐色に熟した果実は水底に沈み、越冬したのち翌年発芽する。
日本では北海道から本州、四国、九州にかけて分布し、国外では朝鮮半島、中国、台湾、ロシア極東のウスリー川流域などにも見られる。平地のため池、沼、湖、水路の淀みなど、水深がおおむね2メートルほどまでの止水域に群生し、しばしば水面を密に覆うほど繁茂する。
花は一日花で、日中に開いて主に昆虫によって花粉が運ばれるが、花弁が開いた状態でも雄しべと雌しべが接触しやすい構造から、自家受粉によって結実する例も多いと考えられている。種子は底泥中に埋没した状態で長期にわたり発芽能力を保つ埋土種子となる性質を持ち、これにより一時的に個体群が失われても後年再び発芽・定着することが可能である。富栄養化が進行した水域では大量繁茂して水面を覆い尽くし、船舶の航行や生態系のバランスに影響を及ぼす例も報告されている。
ヒシの果実には多量のデンプンが蓄積されており、その含有率はおよそ50パーセント程度に達するとされる。このほかブドウ糖やタンパク質、カルシウムなどのミネラル分、各種ビタミン類を含む。
果皮の部分には加水分解型タンニンを主体とするポリフェノール成分が豊富に含まれることが明らかになっている。代表的な成分としてはオイゲニインや1,2,3,6-テトラ-O-ガロイル-β-D-グルコピラノース、そしてヒシから見出された加水分解性タンニンであるトラパインなどが同定されている。これらのポリフェノール群は抗トリプシン作用や抗酸化作用を示すことが報告されており、近年の研究では脂肪の吸収抑制や血圧上昇の抑制、食後血糖値の上昇抑制、抗糖化作用など多様な生理活性が確認され、機能性素材としての利用研究が進められている。
ヒシの果実は縄文時代の遺跡からも出土が知られるほど古くから食用とされてきた植物であり、菱栗、沼栗などの別名を持つ。熟した黒褐色の果実だけでなく緑色の未熟な果実も食され、塩ゆでや蒸し料理にして硬い外皮を除き、栗に似た風味を楽しむほか、天ぷらや甘煮、炊き込みご飯、菓子などにも利用される。乾燥・焙煎した果実を煮出したヒシ茶としての利用も広く行われている。北海道東部の釧路川流域では、アイヌの人々がヒシの実を「ペカンペ」と呼び重要な食糧源としており、収穫を祝う祭りが伝えられている。
薬用としても、健胃、解熱、解毒、滋養強壮、消化促進などを目的に民間で用いられてきた歴史がある。近縁のオニビシやヒメビシの果実は、鋭い刺を持つ形状から、乾燥させたものが忍具の撒菱として利用されたという伝承も知られている。近年では果皮由来のポリフェノール成分が化粧品や機能性食品の素材として製品化されるなど、伝統的な利用と現代的な機能性研究の両面で活用が続いている。
ヒシはミソハギ科(Lythraceae)ヒシ属(Trapa)である。ヒシは真正双子葉類のうちバラ類に含まれ、目としてはフトモモ目に位置づけられる。かつて、ヒシ属はヒシ科(学名Trapaceae)として独立の科に分類され、さらに古い体系ではアカバナ科に含められたこともあったが、水中生活への高度な適応に伴う形態の特殊化がその類縁関係を見えにくくしていたとされる。分子系統学的研究の進展により、ヒシ属はミソハギ科と近縁であることが明らかとなり、APG体系ではミソハギ科に統合されるに至った。
ヒシ属は現生種がユーラシアおよび北アフリカに分布する小さな属であるが、化石記録は古く、白亜紀末にまで遡る近縁属も知られており、浮葉性の水生植物として長い進化史を持つ系統である。菱形の浮葉をロゼット状に展開する独特の草姿や、浮力を得るための膨らんだ葉柄、萼片が変形して生じる刺を持つ果実の構造は、いずれも止水域での浮遊生活に高度に適応した結果として進化した形質と考えられている。近縁種であるオニビシやヒメビシとの果実の刺の数や形状の違いは、種分化の過程で生じた形態的多様化を示す例であり、ヒシは染色体数がこれら近縁種の2倍であることから、両種を親とする雑種起源の系統である可能性も指摘されている。
第2版:2026-07-16.
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