
ヒメスギラン(姫杉蘭、学名 Huperzia miyoshiana (Makino) Ching)は、ヒカゲノカズラ科(Lycopodiaceae)コスギラン属(Huperzia)に属する常緑性の小型シダ植物(広義のシダ植物、正確には石松類)である。日本固有種であり、北海道から九州にかけてのブナ林帯の林床・苔むした岩場などに生育する。
和名の「ヒメ(姫)」は同属の近縁種より小型であることに由来し、「スギラン」は葉の形態がスギ(Cryptomeria japonica)の葉に似ることに由来する。なお「ラン」とあるが蘭(ラン科)とは全く無関係であり、かつて葉の形状が似た植物に「ラン」の名をつける慣習があったことによる。
種小名 miyoshiana は日本の植物学者・三好学(1862–1939)に献名されたものである。
石松類(ヒカゲノカズラ綱)は種子植物や一般的なシダ植物(真葉植物)とは異なる古い系統に属し、古生代石炭紀に繁栄した大型木本石松類(リンボク類など)の子孫にあたる。現生の石松類の中では小型の草本性植物として命脈を保っており、ヒメスギランはその中でも冷温帯の森林環境に特化した種である。
ヒメスギランは高さ(茎長)10~30 cm程度になる常緑性の小型植物である。根茎は発達せず、茎が直接地中から立ち上がる。茎は叉状(二叉状)に分枝することが特徴であり、これはコスギラン属に共通する形質である。直立している間は高さ数cm~30 cm程度だが、成長して茎が長くなると自重により下垂することがある。
葉は茎に螺旋状に密に配列し、長さ1~2 cm、幅1~2 mm(中央部が最大幅)の針状披針形で、基部から先端に向けて細くなり、先端は鋭頭となる。葉縁は全縁で鋸歯がなく、これはトウゲシバ(Huperzia serrata)が葉縁に不規則な鋸歯を持つことと異なる重要な識別形質である。葉の上面は鮮緑色で光沢がある。
ヒカゲノカズラ科の植物は葉脈が単一の中肋のみからなる「小葉」(microphyll)を持つ。これは葉脈が網目状・複数になる真葉植物(シダ植物・種子植物)の「大葉」(megaphyll)とは根本的に異なる構造であり、収斂進化によってスギやヒノキの葉に似た外観を示すにすぎない。
胞子嚢は茎の上部に位置する葉の腋に単独でつく。コスギラン属では胞子嚢が頂端に穂(ストロビルス)を形成せず、栄養葉(胞子をつけない通常の葉)と胞子葉(胞子嚢をもつ葉)が明瞭に区別されない。胞子嚢は腎形で、成熟すると二つに裂けて胞子を放出する。胞子は同型で1種類のみである(同型胞子性)。
茎の頂端付近(上部)には無性芽(牙体・珠芽)が形成される。無性芽は小さな芽の状態で茎から脱落し、新たな個体を形成することができる。これはコスギラン属の重要な生態的特性であり、局所的な繁殖・分布拡大を助ける。
ヒメスギランは日本固有種である。北海道から本州・四国・九州にかけて広く分布するが、個体数は全体的に少なく、分布は局所的・不連続的である場合が多い。
主な生育地はブナ林(Fagus crenata林)の林床や、苔むした岩場・岩壁・渓流沿いの湿った環境である。冷温帯落葉広葉樹林、特にブナ帯の陰湿な環境を好み、空中湿度が高く安定した微気候の場所に多い。
同所的に見られる近縁種として、コスギラン(Huperzia selago)およびコスギトウゲシバ(Huperzia somae)がある。コスギランはやや高標高・高緯度に分布の中心があり、葉がやや広い傾向があるが、両者の形態的差異は連続的で識別が難しい場合がある。
よく似た種として、同属のスギラン(現在はPhlegmariurus cryptomerinusに移された)は主に樹幹着生性であること、トウゲシバ(Huperzia serrata)は葉縁に不規則な鋸歯があることで区別される。
胞子の散布は主に風による。無性芽による栄養繁殖も重要な繁殖様式であり、茎頂の無性芽が脱落して近傍に定着することで局所的な個体群の維持・拡大に寄与する。
配偶体(胞子から発生する有性世代)は地中または樹幹のコケや腐植の中に埋もれており、葉緑体を持たない菌従属栄養性の棍棒状の構造体である。地中に存在するため肉眼での観察は極めて難しく、菌類との共生によって有機物を獲得して生育する。
ヒメスギランは常緑性であり、年間を通じて光合成を行うことができる。冬季も葉を保持することは、ブナ林の落葉後に林床に光が届く時期を利用できるという点でも有利である。
ヒカゲノカズラ科植物、特にコスギラン亜科(Huperzioideae)の植物にはライコポジウムアルカロイド(lycopodium alkaloids)が含まれることが知られている。これはリコポジン型・リコジン型・フォーセチミン型などの構造的に多様なアルカロイド群であり、植食動物に対する化学的防御に機能すると考えられている。
コスギラン亜科に属する種、特に近縁のトウゲシバ(Huperzia serrata)にはヒューペルジンA(Huperzine A, HupA)と呼ばれるアルカロイドが含まれることで知られており、これはアセチルコリンエステラーゼ阻害活性を持つことからアルツハイマー型認知症の治療薬候補として注目されている。ヒメスギラン(H. miyoshiana)についても、同亜科に属することからライコポジウムアルカロイドを含む可能性があるが、本種固有の成分分析に関する詳細な研究は限られており、HupAを含むかどうかも現時点では確認されていない。
石松類の配偶体はシダ植物や被子植物とは異なり、菌従属栄養性(mycoheterotrophic)であり独立栄養によって生育できない。光合成産物に依存せず菌類との共生によって有機物を獲得するという特異な生理様式は、地中という光の届かない環境での生育を可能にしている。
ヒメスギランは一般にはほとんど知られていない植物であるが、シダ植物・石松類の愛好家や植物研究者の間では、ブナ林帯を代表する希少な小型石松類として知られている。
食用・薬用としての利用記録はほとんどない。ただし近縁のトウゲシバ(Huperzia serrata)は中国の伝統医学において「千層塔(Qian Ceng Ta)」として利用されてきた歴史を持ち、ライコポジウムアルカロイドを含む本仲間の植物に対して薬理学的な関心が高まっている。
ヒメスギランはヒカゲノカズラ科(Lycopodiaceae)コスギラン属(Huperzia)に属する。石松類(Lycophyta)は現生維管束植物の中で最も古い系統の一つであり、シダ植物(大葉シダ類)や種子植物とは約4億年以上前に分岐したとされる。古生代石炭紀には樹高30 m以上に達する大型木本性石松類(リンボク類・フウインボク類など)が地球上の森林を支配したが、ペルム紀末の大量絶滅を経て現生石松類は小型草本性の3科(ヒカゲノカズラ科・イワヒバ科・ミズニラ科)のみが残存している。
ヒカゲノカズラ科は分子系統解析によって大きく二つのクレードに分けられる。一つはコスギラン亜科(Huperzioideae)であり、コスギラン属(Huperzia s.s.)・ヨウラクヒバ属(Phlegmariurus)・フィログロッスム属(Phylloglossum)が含まれる。もう一つにはヒカゲノカズラ亜科(Lycopodioideae)とヤチスギラン亜科(Lycopodielloideae)が含まれる。コスギラン亜科を独立の科(コスギラン科 Huperziaceae)として扱う見解もあるが、PPG I(Pteridophyte Phylogeny Group I, 2016)はヒカゲノカズラ科に包含する立場を採る。
コスギラン属(Huperzia s.s.)の範囲についても分類学的議論がある。PPG I(2016)では狭義のコスギラン属として約25種のみを認め、残りの多くをヨウラクヒバ属(Phlegmariurus)に移しているが、Hassler(2022)のリストでは広義に61種8雑種を認めるなど、文献によって扱いが異なる。日本産の文献では Huperzia を独立属として認め、日本に4種(コスギラン・ヒメスギラン・コスギトウゲシバおよびトウゲシバ)が分布するとする扱いが一般的である。
ヒメスギランとコスギラン(H. selago)・コスギトウゲシバ(H. somae)の3種は形態的に類似しており、田川(1959)はこれらを1種にまとめて変種関係に置くことも可能と指摘している。ただし、その後の文献(岩槻 1992、海老原 2016 など)では独立種として扱う立場が維持されている。
第四紀の気候変動に伴うブナ帯の拡縮が現在の分布の不連続性に関与していると考えられるが、石松類の分子系統・分布史研究はシダ植物や被子植物に比べて研究の蓄積が少なく、ヒメスギラン固有の進化史については今後の研究が待たれる。
第1版:2021-07.
第2版:2026-06-10.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.