
エゾクロクモソウ(蝦夷黒雲草、学名 Micranthes fusca (Maxim.) S.Akiyama et H.Ohba var. fusca)は、ユキノシタ科(Saxifragaceae)チシマイワブキ属(Micranthes)に属する多年生草本である。東北地方北部・北海道に分布し、国外では千島列島・カムチャツカ半島にも見られる。亜高山帯から高山帯の渓流沿い・湿った岩場・草地に生育する。
和名の「エゾ(蝦夷)」は北海道(蝦夷地)を中心に分布することに由来する。「クロクモソウ(黒雲草)」は花序が暗紫褐色の小花を多数つける様子を黒い雲に見立てたとされる。
分類学的な位置づけについては重要な変遷がある。本種はもともとユキノシタ属(Saxifraga)に含められ、Saxifraga fusca Maxim. subsp. fusca として扱われていたが、形態的特徴と分子系統解析の結果(Soltis et al. 1996 などを端緒とし、秋山ら 2012 年に整理)に基づき、チシマイワブキ属(Micranthes)として独立させる処理が提唱された。日本産の文献では現在この扱いが広く採用されているが、Flora of China などではユキノシタ属の一節(section Micranthes)として扱う立場も残っており、文献によって学名が異なることに注意が必要である。
エゾクロクモソウは Micranthes fusca の分類上の基本種(基準変種)であり、変種のクロクモソウ(var. kikubuki)やナンゴククロクモソウ(var. kiusiana)に対する原変種として位置づけられる。
エゾクロクモソウは高さ10~30 cm程度になる多年草である。
地中の根茎は太く短く木質化し、根出葉を束生させる。根出葉には長さ2~15 cmの葉柄があり、葉身は直径2~8 cmの円腎形で、基部は心形となる。葉縁には粗い三角状の鋸歯が多数あり、これがクロクモソウ(var. kikubuki)の卵形鋸歯と区別するための重要な識別形質の一つである。葉の表面には短い縮毛がまばらに生え、裏面は無毛である。チシマイワブキ属の葉にはシュウ酸カルシウムの結晶が含まれることが知られており、本種においても同様と考えられる。
花期は7~8月である。花茎は高さ10~30 cmで茎葉をつけず、上部にまばらな円錐花序をつける。エゾクロクモソウの花柄は糸状に細く、長さ最大15 mm程度になるため、花序全体がまばらに見える。これに対しクロクモソウの花柄は長さ2~5 mmと短く、花序の密度が高く見える。この花柄の長さは両変種の重要な識別形質の一つである。
花は直径5~8 mmで、エゾクロクモソウでは緑褐色から淡緑色のものが多く、クロクモソウの紫褐色と色調が異なる傾向があるが、変異の幅があり淡緑色のものも存在する。萼裂片は5個で卵状三角形、花時に大きく反り返る。花弁は5個で長さ約3 mmの長卵形、平開する。発達した花盤が環状に隆起して2個の雌しべを取り囲む。この花盤はチシマイワブキ属に特徴的な形質であり、紫褐色から淡緑色を呈する。雄しべは10個で花盤の縁につき、開裂直前の葯は橙色となる。花柱は暗紫色で短い。
また、エゾクロクモソウの花序の毛は腺毛を主体とし、クロクモソウ(屈毛を主体とする)との識別に用いられる。腺毛と屈毛が混在するものはウスゲクロクモソウと呼ばれることがあるが、分類上はエゾクロクモソウに含める扱いが一般的である。
果実は蒴果で、花後に子房の上部が急速に伸び、長さ4~6 mm、上部が2つに分かれた嘴状の形となる。種子は紡錘状楕円形で長さ約0.8 mm、表面に多数の乳頭状突起を持つ。
エゾクロクモソウ(var. fusca)は本州東北地方北部から北海道(知床を除く)に分布し、国外では千島列島・カムチャツカ半島にも見られる。知床以東の北海道および千島列島にはチシマクロクモソウ(var. kurilensis)が分布し、知床付近では両変種が接触する可能性がある。
なお広義のクロクモソウ(Micranthes fusca)として見た場合の分布は九州から千島列島に及ぶ。日本生態学会大会での研究(ESJ68・ESJ69)によれば、種全体の生育地における暖かさの指数(WI)は11.9℃・月から87.4℃・月まで大きく変化し、亜高山草原から落葉広葉樹林帯まで広範な植生帯に生育することが報告されている。これは高山性植物としては異例の広い温度適応範囲を示しており、生育地ごとの環境適応について今後の研究が期待される。
主な生育環境は亜高山帯から高山帯にかけての渓流沿い・湿った岩場・岩隙・苔むした岩壁・湿った草地である。常に湿潤で安定した水分が供給される立地を好み、特に渓流沿いや滝の近傍など水しぶきが届く岩壁に着生的に生育することも多い。根茎が木質化して岩の隙間に定着する能力が、こうした基質への適応を支えている。
同じ渓流沿い・湿岩環境にはチシマイワブキ(Micranthes nelsoniana)・フキユキノシタ(Micranthes japonica)・ユキノシタ属各種・ネコノメソウ属植物などが共存することがある。
花にはハナアブ類・ハナバチ類などが訪れ送粉を行うと考えられるが、本種の送粉生態に特化した研究の蓄積は限られている。種子は蒴果が裂開して散布されるほか、渓流沿いの生育地では流水による水散布も分布拡大に関与する可能性がある。
エゾクロクモソウは常緑性の多年草であり、根茎に養分を蓄えて越冬し、雪解け後に速やかに生長を再開する。
チシマイワブキ属の植物は葉にシュウ酸カルシウムの結晶を含むことが知られており、これは古くからユキノシタ亜属(Saxifraga s.s.)との識別形質の一つとして挙げられてきた。シュウ酸カルシウムの結晶は植食動物への防御や、余剰カルシウムの処理に機能すると考えられている。
渓流沿い・岩場という生育環境では、岩盤・礫由来のミネラルが豊富な環境と、常時湿潤な土壌水分という特殊な条件への適応が必要である。根茎の木質化と岩隙への固着能力は、流水による流失を防ぐ物理的適応と考えられる。
花の紫褐色~暗色の花弁および花盤の色は、高山帯の強い紫外線環境においてアントシアニン系色素が蓄積した結果と考えられており、同時に紫外線吸収・抗酸化機能を持つと推察される。また、高山帯の低温でも訪花昆虫を誘引するために花が目立つ色調をとることにも適応的意義がある可能性がある。
本種固有の化学成分分析に関する詳細な研究は現在のところ乏しく、ユキノシタ科・チシマイワブキ属全体での知見からの外挿にとどまる部分が多い。
エゾクロクモソウは一般には広く知られた植物ではないが、高山植物の愛好家や渓流沿いの植物観察において見出される植物として、北海道・東北の山岳地帯を訪れる自然観察者に親しまれている。
食用・薬用の利用記録はほとんどない。ユキノシタ科の近縁属であるユキノシタ(Saxifraga stolonifera)は食用・薬用に利用される民俗植物として知られるが、エゾクロクモソウについてそのような記録は確認されていない。
山野草・高山植物の観賞分野においては小型で渓流岩場の雰囲気を持つ植物として関心を持たれることがあるが、湿潤・冷涼な環境への要求が高く、一般的な園芸栽培の普及は限定的である。
エゾクロクモソウはユキノシタ科(Saxifragaceae)チシマイワブキ属(Micranthes)に属する。ユキノシタ科はAPG植物分類体系においてユキノシタ目(Saxifragales)に位置づけられ、旧来のバラ目(Rosales)からの移動が確定している。ユキノシタ目にはベンケイソウ科・マンサク科・ブドウモドキ科なども含まれる。
チシマイワブキ属(Micranthes)はかつてユキノシタ属(Saxifraga)の一亜属(subgenus Micranthes)として扱われていた。Soltis ら(1996)の分子系統解析によってユキノシタ属が多系統である可能性が示され、その後の研究の蓄積を受けて秋山ら(2012)が日本産植物においてチシマイワブキ属として独立させることを提唱・整理した。世界に約80種が知られ、北半球の寒帯・高山帯に多い。属名 Micranthes はラテン語の「小さい花」を意味する。
Micranthes fusca(広義クロクモソウ)の種内変種構成は現在、エゾクロクモソウ(var. fusca)・クロクモソウ(var. kikubuki)・ナンゴククロクモソウ(var. kiusiana)の3変種として整理されている。なお以前はチシマクロクモソウ(var. kurilensis)を加えた4変種が認められていた時期もあったが、現在の処理では上記3変種とされることが多い。
種内の系統関係については、ITS領域および葉緑体DNA(trnC-rpoB、matK 領域)に基づく分子系統解析(日本生態学会大会 ESJ68・ESJ69 での報告)によって、各変種が遺伝的なまとまりを明確に反映しておらず、核DNAと葉緑体DNAで系統樹の樹形が大きく異なることが示されている。これは変種間の交雑や incomplete lineage sorting(不完全な系統分岐)の影響を示唆しており、変種の単系統性および変種区分の妥当性については今後のさらなる研究が必要である。
クロクモソウ(広義)は周北極地方に広く分布するシベリアイワブキ(Micranthes nelsoniana)から分化したと推定されている。シベリアイワブキは北太平洋の環北極的分布を持つ種であり、クロクモソウは日本列島への分布拡大の過程で各変種に地理的分化した可能性が指摘されている。このような系統的位置づけはエゾクロクモソウを含むクロクモソウ全体が、氷期の植物移動史の中で日本列島に定着した北方系要素の一つであることを示している。
本解説における最も重要な論点は以下の2点。第一に、属の扱い。Micranthes を独立属とする立場(日本の多くの文献)と、ユキノシタ属の一節として扱う立場(Flora of China など)が並存しており、参照文献によって学名が異なる。第二に、変種の系統的実態。分子系統解析によって現行の変種区分が遺伝的まとまりを反映していない可能性が示されており、今後の分類学的整理が待たれる状況。
第1版:2021-07.
第2版:2026-06-10.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.